テオティワカンの建設者は誰だったのか――「一つの民族」が造ったという誤解
テオティワカンを築いた人々の民族名は、現在も特定されていません。しかし、何も分かっていないわけではありません。考古学が示すのは、中央メキシコの住民を核に、各地から来た人々が世代を重ねて建設した多民族都市という姿です。
アステカ(メシカ)が造った都市ではありません。彼らがこの地を聖地として重んじたのは、都市が衰退してから数百年後のことでした。
この記事の結論
- 建設者を単一の民族名で断定できる文字史料は見つかっていない
- 都市は紀元前後から段階的に拡大し、最盛期には約10万人が暮らした
- オアハカ、メキシコ湾岸、マヤ地域、西部などに関係する住民が確認されている
- 2025年には表記言語をユト・アステカ語族の一言語とみる研究が発表されたが、まだ検証中の仮説である
確度:有力説あり
多民族都市だったことには強い証拠があります。一方、創建を主導した集団の民族名、使われた主要言語、統治者の実像は未解明です。
まず整理したい「テオティワカン」という名前
現在の名称は、都市を建設した人々が残した名前ではありません。
メキシコ国立人類学歴史研究所(INAH)によると、この都市は紀元前200年ごろから発展し、700~750年ごろまでに衰退しました。「神々が創られた場所」を意味するテオティワカンという名称は、後世に遺跡を訪れたメシカが付けたものです。
両者の時代には大きな隔たりがあります。メシカがテオティワカンを宗教的に利用したのは14世紀ごろで、太陽のピラミッドなどの主要建築が造られた時期より千年以上も後です。
同じ理由で、現在使われる次の名称も、本来の用途や祭神を保証するものではありません。
- 太陽のピラミッド
- 月のピラミッド
- 死者の大通り
- ケツァルコアトル神殿
後世の呼び名を、建設者自身の証言と取り違えてはいけません。
巨大都市は一度に造られたのではない
テオティワカンは、正体不明の集団が突然完成させた都市ではなく、数世紀にわたる人口集中と組織的な増築の結果です。
INAHの年代整理では、紀元前200年ごろから紀元初頭にかけて都市の軸となる死者の大通りが引かれ、太陽と月のピラミッドの建設が始まりました。太陽のピラミッドは主に紀元1~150年ごろに建設されたとされています。
最盛期の350~450年ごろには、都市域は約20平方キロメートル、人口は約10万人に達しました。約2,000の集合住宅があり、一つの区画に20~100人ほどが暮らしたと推定されています。水を取り込み、食料を用意し、工芸品を生産し、埋葬や祭祀も行える生活空間でした。
この規模の都市を維持するには、石や土を運ぶ労働力だけでは足りません。
- 食料と水の安定供給
- 黒曜石などの原料の調達
- 工人の配置と建築技術の継承
- 集合住宅や街路の計画
- 遠隔地との交易と外交
- 宗教儀礼による住民の統合
つまり「誰がピラミッドを積んだか」という問いは、「誰が人、資源、技術を都市へ集め、何世代も協働させたのか」という問いでもあります。
建設者の正体を示す三つの証拠
出土品、人骨、街区の造りを重ねると、住民が一つの出自ではなかったことが見えてきます。
1.地域ごとに特色のある街区
INAHは、テオティワカンを文字どおりの多民族都市と説明しています。都市には、オアハカのサポテカ系住民、メキシコ湾岸、マヤ地域、西部メキシコなどと結び付く街区がありました。
よく研究されているのが、都市西部のトライロトラカン、通称「オアハカ街区」です。住民はテオティワカンの都市方位に合わせて建物を配置しながら、モンテ・アルバンに通じる墓や土器、葬送習慣を保っていました。
これは単なる輸入品の集積とは異なります。外来の品物ではなく、人々が移住し、家族や共同体を維持していた証拠だからです。
一方、メキシコ湾岸やマヤ地域などに関係する「商人街区」では、異なる出自の住民が同じ場所で暮らした形跡があります。都市は外国人を周辺に追いやるだけでなく、交易路と結び付く場所へ組み込んでいたと考えられます。
2.歯に残った移動の履歴
人が幼少期に暮らした地域は、歯のエナメル質に含まれる酸素やストロンチウムの同位体比から推定できます。水や食物を通じて取り込まれる元素の比率が、地域の地質や気候によって異なるためです。
月のピラミッドで出土した被犠牲者を調べた研究では、多くがテオティワカン以外で生まれたと推定されました。候補にはメキシコ盆地の別地域、中央高原、メキシコ湾岸、シエラ・マドレ・デル・スルなどが含まれます。
ただし、祭祀の犠牲者が多地域出身だったことだけで、一般住民全体の構成までは決められません。同位体分析が教えるのは個人の移動であり、その人が何語を話し、どの民族を自認したかではないからです。
3.地域を越えてそろえられた都市様式
異なる文化的背景を持つ住民がいた一方、建築の方向、壁画、土器、祭祀には都市全体で共有される「テオティワカン様式」がありました。
外から来た人々は故郷の習慣を完全には捨てず、それでも共通の都市秩序に参加したのです。この二重性が重要です。テオティワカン人とは、もともと一つだった民族というより、都市生活と制度を共有することで形成された政治的・文化的な集団だった可能性があります。
ここがポイント: 建設者の名前が不明なのは「住民がいなかった」からではありません。多様な住民を、一つの現代的な民族名に当てはめられないのです。
創建を主導したのはどの集団か
候補は複数ありますが、創建者を一つの民族へ絞る決定打はありません。
中央メキシコには、テオティワカン以前から農耕集落と祭祀施設が存在しました。南部のクイクイルコは、本格的な都市化に先立つ大規模中心地の代表です。周辺地域の人口移動がテオティワカンの成長を支えた可能性は高いものの、「クイクイルコの避難民が都市を建設した」という一本の物語だけでは、長期間にわたる発展や多地域からの流入を説明し切れません。
候補として論じられてきた集団には、ナワ系、オトミ系、トトナカ系などがあります。しかし、物質文化の類似だけで言語や民族を決めることはできません。同じ土器を使う人々が同じ言語を話すとは限らず、交易品の出土は移住の証明にもならないからです。
現時点で最も無理の少ない理解は、次のような段階モデルです。
- テオティワカン盆地と中央メキシコの住民が初期集落を形成する
- 周辺の人口再編によって都市が急速に成長する
- 宗教、交易、政治の中心として遠隔地から移住者を引き付ける
- 多様な街区を保ちながら、共通の都市文化が成立する
- 後世の研究者がその住民を便宜的に「テオティワカン人」と呼ぶ
この説明なら、地域性と多民族性をどちらも捨てずに済みます。
2025年の文字研究は「誰だったか」を解いたのか
新しい研究は有力な手掛かりですが、建設者の正体を確定したわけではありません。
テオティワカンには壁画や土器に記号が残るものの、マヤ文字のような長い王朝記録は解読されていません。そのため、都市の本来の名前、統治者名、出来事を住民自身の文章から追えないことが研究上の大きな壁でした。
2025年、『Current Anthropology』に掲載されたMagnus Pharao HansenとChristophe Helmkeの研究は、テオティワカンの記号が言語を表す文字であり、ナワトル語、コラ語、ウィチョル語の祖先に近いユト・アステカ語族の言語を記した可能性を提案しました。表語文字や、音を借りる判じ絵のような原理を使って複数の記号を読む試みです。
この仮説が検証を重ねて支持されれば、少なくとも都市の有力層または書記が、ユト・アステカ系の言語を使った可能性が高まります。ただし、次の点はまだ別問題です。
- 一部の記号を読めても、住民全体の民族構成は決まらない
- 行政や祭祀の言語と、家庭で話す言語は同じとは限らない
- 多民族都市では複数言語が併用されていた可能性が高い
- 読み方を検証できる記号列と比較資料がまだ限られる
したがって、「ナワ系集団が単独で全都市を建設した」と結論するのは早すぎます。これは未知の扉を開く仮説であり、扉の向こうをすべて見通せたわけではありません。
王が造らせたのか、それとも集団統治だったのか
大規模な権力は存在しましたが、それが一人の王へ集中していたかは分かっていません。
マヤの都市では、王の名、肖像、系譜が石碑に刻まれました。対してテオティワカンの公的美術では、特定の支配者を巨大化して称える表現が目立ちません。この違いから、複数の地区や有力集団が権力を分け合う「集団統治」説が提案されています。
一方、羽毛の蛇神殿の建設に伴う大規模な人身供犠や、都市計画を実行する動員力は、強い中央権力を示します。名前の残らない王や王朝がいた可能性も排除できません。
二つの説は、完全な二者択一とも限りません。
- 初期には強力な指導者が記念建築を主導した
- 後に複数地区の代表が参加する統治へ変化した
- 王、祭司、軍事集団、街区の有力者が権限を分担した
都市は約九世紀にわたって変化しています。全期間を一種類の政治制度で説明しようとすると、かえって実態を見失います。
よくある誤解を検証する
有名な説明ほど、年代と証拠を分けて確認する必要があります。
誤解1:アステカがピラミッドを築いた
違います。メシカが遺跡を聖地として利用したことは確認できますが、主要建築は彼らの時代よりはるかに古いものです。
誤解2:トルテカ人が建設した
後世のメソアメリカでは「トルテカ」が優れた職人や文明人を指す権威ある呼称として使われることがありました。そのため、伝承上のトルテカと、考古学上の特定集団を単純に同一視できません。
誤解3:高度すぎるため外来文明の技術が必要だった
都市からは、地域の材料、技術、建設過程を示す証拠が出ています。太陽のピラミッドの内部は土、石、火山性材料を突き固め、外側を石壁と漆喰で覆う構造です。必要だったのは未知の技術ではなく、膨大な人員と資材を長期間まとめる社会組織でした。
誤解4:民族名が不明なら考古学は何も解明していない
名前が読めなくても、年代測定、住居、食物残渣、土器、埋葬、同位体、DNAから生活と移動は復元できます。反対に民族名が一つ判明しても、全住民の出自や政治制度まで自動的に判明するわけではありません。
分かっていること、まだ分からないこと
証拠が強い結論と、検証中の推測を分ければ、謎の輪郭はかなり明瞭になります。
強い証拠があること
- 都市の発展は紀元前200年ごろから始まり、主要建築はメシカ以前に造られた
- 最盛期には約20平方キロメートルに約10万人が暮らした
- 約2,000の集合住宅が都市生活を支えた
- オアハカ、メキシコ湾岸、マヤ地域、西部などと結び付く住民街区があった
- 建設には地域で得られる土、石、火山性材料と組織的労働が使われた
- 都市は中央メキシコを越えて広い政治的・経済的・文化的影響を及ぼした
有力だが検証が続くこと
- 初期住民に中央メキシコ各地からの移住者が含まれた
- 「テオティワカン人」という共通意識が都市生活の中で形成された
- 複数の地区や有力集団が統治に参加した時期があった
- ユト・アステカ系言語が公的な表記に使われた
まだ分からないこと
- 都市を建設者自身が何と呼んだか
- 創建を主導した集団の自称と民族名
- 都市で最も広く話された言語
- 統治者の名前、系譜、具体的な権限
- 政治制度が時代ごとにどう変化したか
- 住民が自分たちを一つの民と考えていたか
まとめ:探すべきは一つの民族名ではない
テオティワカンを築いたのは、アステカでも、突然現れた正体不明の文明でもありません。中央メキシコの住民と、メソアメリカ各地から集まった移住者、その子孫たちが、世代を越えて都市を造り続けました。
固有の民族名は分からなくても、集合住宅で暮らした家族、黒曜石を加工した職人、遠方と品物を運んだ商人、建築を計画した専門家の存在は遺物から追えます。巨大都市の本当の驚きは、失われた超技術ではなく、異なる出自の人々を共通の都市へまとめた仕組みにあります。
今後の焦点は、文字の新しい読み方が別の記号列でも再現できるか、初期層の人骨や住居から創建期の人口移動をどこまで復元できるかです。その二つが結び付いたとき、建設者を「現代の民族名」ではなく、彼ら自身の言葉で呼べる日が近づきます。
参照リンク
- INAH:Ciudad prehispánica de Teotihuacan
- INAH:The Foreign Neighborhoods of Teotihuacan
- INAH:Pirámide del Sol
- INAH:Zona Arqueológica de Cuicuilco
- UNESCO:Pre-Hispanic City of Teotihuacan
- Ancient Mesoamerica:Residential Histories of the Human Sacrifices at the Moon Pyramid
- Current Anthropology:The Language of Teotihuacan Writing
- PLOS ONE:Can Government Be Self-Organized?
